

小倉――ギャラリートークでは、篠原一男について、芸術、歴史、図面という3つのテーマから読み解いていきます。初回はゲストに青山学院大学准教授の天内大樹さんを招き、芸術という切り口から考えてみたいと思います。展覧会で配布している「『篠原一男 100の問い』への『100の応答』」という冊子では、篠原の「ハード・エッジの空間」という言葉に対して、短い文章を書いていただきました。
天内――篠原が言う「ハード・エッジの空間」とはどういうものか、探ってみました。例えば「輝く都市をきみは見たか」という1993年の文章で彼は、訪れたシカゴとトロントを比較して、シカゴがハード・エッジ的だと書いています。シカゴというと、水平に広がる湖面にむかって、グレーでスクエアな高層ビルが建ち並んでいる風景をまず思い浮かべます。それに対してトロントは建築家たちの衝動を映す「輝く都市」だという。
思い出すのは、美術史家のハインリヒ・ヴェルフリンが、ルネサンスとバロックを比較して論じたことですが、そこで線的なものと絵画的なものという説明をします。絵画的というのは、油絵のタッチで1個のシミから始まって色としての塊ができ上がっていく感じです。それに対して線的というのは、色の塊が存在するということよりもエッジで輪郭を分けるということを重要視する表現の仕方です。
現代美術にもハード・エッジ絵画と名付けられた動きがあって、色の面をくっきりとした線で分割するような抽象絵画ですね。あるいはキャンバスの形そのものが絵画の表現になっているようなもの。フランク・ステラの作品などがこれにあたります。こうしたものは線的な絵画と言えます。情念的なジャクソン・ポロックやウィレム・デ・クーニングらの抽象表現と対照をなしています。
篠原は、そもそも建築というものは線的な秩序のもとにあるもので、絵画的な建築表現というのは考えにくいと捉えていたと思います。
小倉――シカゴがなぜハード・エッジか、というところですが、それはやはり、ミース・ファン・デル・ローエの街であるという意識が強かったのでしょうね。篠原が海外へと行き出すのは同時代の他の建築家と比べて遅く、1970年代前半からです。アーカイブには海外旅行で撮った大量の写真が残っていて、昨年学生と数えたところ12,000枚くらいあったのですが、それを見ると、建築作品の写真はすごく少なくて、大都市のスカイラインを撮ったり、何でもない街中の風景を撮ったり、そういうのがほとんどです。路地を撮ったり、本当にそればっかりなんですよね。
天内――篠原の写真の中ですごく印象的な1枚があって、両側の建物に挟まれた坂道の奥に海岸が見え、その手前にてんでに歩いている人たちが写っているというものです。線的な統制が効いている都市空間の中で、絵画的とは言わないまでも、カオス的な都市のアクティビティが垣間見える。そういうところに魅力を感じていた人だったんだなとわかります。
小倉――篠原は1964年に「住宅設計の主体性」という文章を発表しています。そこでは「いかなる都市デザインからも自由である」と書いています。つまり住宅のデザインのやり方と都市のデザインのやり方は、独立していてよいのだ、と。それが後になって、「ハード・エッジの空間」を論じるころになると、都市空間も住宅と連動した方法論で行くという考え方へ展開していきます。ハード・エッジで明確な形をもったフラグメント群によって、建築や都市の空間やスカイラインを構成していくという設計の手法になるのです。非住宅でアンビルドの計画案などを手がけながら、建築と都市を連動させる用意がある、というふうに言い出すわけですね。DOM本社屋計画案(1980年)など、非住宅で規模が大きな作品を手がけるようになって、社会状況の変化とともに自分の設計論も変わっていったのではないかと考えられます。
天内――篠原はどういう芸術に関心をもっていたのでしょうか。
小倉――書かれたものを読むと、僕が知っている限り、美術家への言及は極めて少ないです。ひとつは「谷川さんの住宅」に脚立みたいなものが置いてありますが、あれはセザンヌのアトリエにあったものを参照したのだと『11の住宅と建築論』(1976年)の巻末で漏らしています。もうひとつが「第3の様式」という文章で、自分の様式をめまぐるしく変貌させていくピカソへの共感を明かす。篠原が様式という言葉を使うのは、この時がおそらく初めてです。建築で様式というと時代で共有されるものですよね。本来は作家個人の様式という使い方はない。
天内――篠原が言う様式は、その後の量産ということを多少は考えていて、その原型を自分はつくるのだという意識があるんだと思います。量産ゆえに、プロジェクトごとの施主の要求や敷地の条件に揺り動かされることのないものを自分の中にもっておく必要がある、それが様式だという捉え方。そこに篠原の強い作家性というものを見ることができると言えます。
小倉――もうひとつ、これは言及ではないのですが、篠原が遺した膨大なスケッチの束の中に、キュビズム的な絵画や彫刻作品が紛れていました。前後関係からすると「蓼科山地の初等幾何」の検討中でしたが、それ以外の作品でも晩年のスケッチはそうした近現代美術作品と通じるものがあるようにも感じられます。本人は明かしませんが、篠原は美術界もかなり追っていたのでしょう。
小倉――天内さんは分離派建築会について研究をされていますね。篠原一男とつながる点がありますか。
天内――分離派建築会が現れた大正期というのは、建築家たちが初めてマーケットにさらされる時代なんです。それまでは大学で建築を学んで卒業すれば誰でも国から設計の仕事がもらえていたのに、新興の企業人や文化人を相手に自分を売り込まなくてはいけなくなった。自分の様式というものを示す必要があるわけです。個人の様式ということを最初に言い始めたのは、分離派建築会の堀口捨巳でしょう。篠原も堀口のことは意識してたでしょうね。「住宅は芸術である」という言葉も、分離派建築会の「建築は芸術である」という宣言が下敷きになっていると考えられます。
小倉――メディアの使い方という面からも、篠原は堀口を受け継いでいると言えそうです。写真や書籍の効果を駆使することで建築家として大成した人にはまずル・コルビュジエがいるわけですが、堀口も自分が設計した住宅の作品集をつくり、その本の装丁までしっかりとやる。篠原は装丁まではしませんが、写真や発表図面に大変厳しいことが知られていて、メディアを使って建築を表現することをやはり強く意識し、それを〈虚構の空間〉と呼ぶわけですね。
天内――ちなみに堀口の著作にも判型が正方形のものがあります(板垣鷹穂との共編著『建築様式論叢』1932、岡田邸=1933のモノローグ『一住宅と其庭園』1936など)。篠原さんの作品集もそうでしたよね。今回は建築界の外から、篠原が芸術をどう捉えていただろうかということを想像を交えて語らせてもらいました。今の若い人たちにとって、篠原はわかりにくいところがあるかもしれないですが、その内部には語られにくい必然性がある。そのあたりが伝わればいいと思います。
小倉――篠原自身は自己参照的に言説を語るし、作品もそういう展開で説明していくので、本人以外は誰も語れないのではと思われてしまうのですが、同時にやはりいろいろな参照の文脈を抱えている人でもあるんです。篠原を広く捉えて語ってもらおうと、今回の展覧会では天内さんを含め、100名の方々にハンドアウトに篠原への応答を寄稿いただきました。。今日のトークも、篠原の可能性を開いていくような内容になったと思います。ありがとうございました。
開催日:2025年5月11日
於:TOTOギャラリー・間 4Fにて
編集:磯達雄(Office Bunga)
小倉――スイス連邦工科大学チューリヒ校に留学した時に、篠原一男が書籍や雑誌でよく取り上げられていて、海外での関心の高さを実感していました。
江本――僕は小倉さんの数年前に同じところに留学していましたが、やはり、図書館の返却デスクに大量の篠原一男の作品集が並べられていたことを覚えています。日本語以外のものが多く、色とりどりだった記憶です。篠原について僕が日本で描いていた孤高の建築家というイメージと、スイスでポップに受容されている印象とが、すごく乖離している。そのことにまず興味を覚えました。
小倉――今回のトークでは、建築史における篠原一男の位置付けについて、論じたいと思います。
江本――僕はこれまで篠原の研究者ではなく、テーマのひとつとして、日本がどのように世界の近現代建築史に書かれたのかについて研究してきました。それで海外のいろいろな近現代建築史の通史本を集めているのですが、今回、篠原に関するものを読み直して、気が付いたことを話してみたいと思います。結論めいたことをまず言ってしまうと、篠原には二面性があって、日本国内と海外で、自分をどうアピールするかを意識的に変えている。今日、はっと気が付いたんですが、展覧会のチラシに使われている「谷川さんの住宅」の内部写真は、篠原本人とガラスに映った虚像が、内側と外側をそれぞれ見ていて、彼の二面性を見事に表現していますね。
小倉――多木浩二が撮った写真です。この構図は、さすがですよね。江本さんには「『篠原一男 100の問い』への『100の応答』」という冊子で、「不確かさの表現」という言葉について書いていただきました。
江本――「不確かさの表現」について篠原が書いたのは雑誌『新建築』の1971年1月号です。日本の民族性をどう表現するかについて語るときの、節のタイトルに使われました。でも読んでみると、本文と節のタイトルが、あまり結びつかないように感じます。
小倉――わざとわかりづらく書いているように思います。
江本――そう、わかりづらく書いているのに、語り方はかなり断定的なんですよ。日本人の民族性というのも前提として疑わしいのに、自明のものとしてさっさと片付けて、その先に浮かび上がる仮説の仮説の仮説みたいなものを語ろうとする。篠原の言説には“たら・れば”が多いけれども、何のためにそういう断定的な仮説を積み重ねていかなければならなかったのか。それを考えて、日本国外の見方を意識しているんじゃないかと思い至ったんです。
小倉――これは日本語で書かれてますけれども…。
江本――まさにその通りで、日本国外の人に向けては、こんなことをわざわざ言わないだろう。 日本人向けだからこそ、これを書いたということです。ある種の二枚舌を使っているのではないか、という考えが僕の中でもたげてきました。篠原は、国内外にそれぞれどういう情報を出して、どういう情報を出さなかったのか。そのあたりに関心が向いていきました。
小倉――篠原一男がどのように海外で受容されたのかを確かめるため、年表を制作しました。海外で発行された書籍や雑誌の記事、海外での展覧会、海外視察などの事項を時系列で列挙しています。海外の雑誌に初めて掲載されたのは1957年で、フランスの建築雑誌『L'Architecture d'Aujourd'hui』が「久我山の家」を取り上げています。
江本――今回の展覧会に合わせて、もともと1996年にTOTO出版から発行された篠原の作品集が復刻されました。この本では、篠原が海外でどのように紹介されたかについて、所どころ註をつけながら語っています。これがとても興味深い。たとえば註をわざわざ付ける箇所には、その元をたどってくださいというメッセージがある。「久我山の住宅」については、デビュー作が国外で紹介されたことをアピールしていますが、フランスと英国で紹介されたけど、英国の『Architectural Design』についてだけ註に記しています。ただし、桂離宮とミースの影響があると批評された、と書いているけど、原文にあたると、「久我山の住宅」の評のところにはミースの名前は出てきません。
小倉――これは意図的なのか、それとも単なる記憶違いなのか。
江本――わかりません。でも篠原自身がミースを強く意識していたことは間違いないでしょうね。『Architectural Design』では、1972年にも『篠原一男 16の住宅と建築論』の書評が載りました。書いたのは、ニュー・ブルータリズムを先導したピーター・スミッソンです。これについて篠原は、評者の名前を挙げて、記事になったことを紹介しています。これも原文をあたったら、短めでしたけど辛辣な評でしたね。
小倉――作品は面白いが言説が作品と乖離しているとか、実作は日本の伝統とイタリア建築の流行の混淆のようだとか。
江本――この箇所に、註はついていません。スミッソンという有名人に書評されたことは知ってもらいたいけど、原文を掘り返してもらいたくはないという気持ちからでしょうね。
小倉――その書評が出て半年後、篠原は初めて海外旅行へ出かけています。
江本――そのときに〈第2の様式〉は既に最終地点にあった、みたいなことを書いていますね。日本の外に自分の身を置くことで、自分が捉える建築様式も変化したということでしょうか。
小倉――その可能性はありますね。1970年代に篠原は、キューブを基本にした〈第2の様式〉から、「谷川さんの住宅」のような〈第3の様式〉へとガラリと変わる。その転換の前後に、海外旅行での体験があるというのは本人もお気に入りのストーリーです(『新建築』1977年1月号「第3の様式」)。
江本――今回再販された篠原の作品集で、僕が一番強い印象を受けたのは、最後のところです。1980年代に論じた機械のコンセプトを振り返りながら、こう書くのです。「私が組み立てた空間に〈私の名〉と〈日本の国籍〉が浮かび上がったならば、この命題の有効性が検証されたことになる/さらに時間がやがて証明する、高性能機能を優美な単純輪郭で包んだ、透明な力の幾何学が未来に向けた射程の大きさを。そのとき、私の新しい前衛線、〈第5の様式〉が展開する」。これは予言者の言い方です。〈第5の様式〉が展開されるのは、生前ではなく自分が死んだ後のこと。しかし自分がいなくなってからも、自分のことばを解釈し続けてくださいというメッセージなのだと思います。それは同時に、世界建築史に自分の名前を残したいという、強烈な欲求の表れだと感じました。
小倉――〈名前〉と〈国籍〉は1981年に予言されていて、これが「建築へ」(『新建築』1981年9月号)という論考、つまりル・コルビュジエへのオマージュなんですよね。篠原は「モダニズム:コルビュジエ、フランス」のように固有名詞でものを考える傾向がありますが、世界建築史に残る日本の建築家というと、現状では誰がいますか。
江本――例えば磯崎新ですよね。東京工業大学でも教えていたデイヴィッド・スチュワートが、英語による日本の近現代建築史『The Making of a Modern Japanese Architecture: 1868 To the Present』(Kodansha USA Inc)を1988年に出版するのですが、その表紙に大きく使われている写真は磯崎が設計した「北九州市立図書館」です。ただし、この表紙には仕掛けがあって、小さく別の建物の写真も載っている。
小倉――障子の内観は篠原が設計した「鈴庄さんの家」ですね。
江本――そうなんです。それから、瓦だけ切りとった写真も実は「白の家」の屋根です。さらに裏表紙には「上原通りの住宅」の内観が一面にあしらわれています。また、中身を見ると磯崎と篠原はだいたい同格で、磯崎の方がページ数が少し多いくらい。でもトリを取るのは篠原になっています。
小倉――ここぞ、というところに篠原が配置されている。
江本――そしてこの本が2002年に再刊されます。その際に、サブタイトルが『From the Founders to Shinohara and Isozaki』と替えられました。磯崎の名前が後に来ているけれど、中身は変わらないので最後を締めるのはやはり篠原。この本の構成について、著者に話を聞いてみたかったですね。
小倉――非常に残念ながら、スチュワートさんは今年の4月にお亡くなりになられました。この展覧会にもいらっしゃる予定だったんですが。
江本――各国で出された近現代建築の通史をチェックすると、磯崎の名前は1971年代の初めくらいから出てきます。西洋建築の通史として、改訂されながら読まれ続けている『フレッチャー建築史』の第19版にも載って、篠原もそれを追って第20版から出てくるようになります。スピロ・コストフの『建築全史』だと、第2版から日本への言及が加わって、磯崎が取り上げられる。ところが、これをリチャード・インガソルが改訂した版では、磯崎への言及がほぼなくなっているんです。一方で2010年以降、世界各国で出版される建築書を見ると、磯崎関係の本よりも篠原関係の方が明らかに多い。
小倉――そういう海外での関心の高まりに応じて、今回の篠原作品集の復刻では、論文と作品解説を英訳したブックレットも制作していただきました。
江本――とても意義深いことですね。日本の近現代建築史というと、これまではまず丹下健三がいて、その流れで磯崎が論じられる、篠原は必須ではないという認識のされ方だったと思います。けれども今から10年後、20年後は、どうなっているかわかりません。ちなみに、篠原一男に対する海外での関心のありようがうかがえる指標のひとつが、Wikipediaです。言語ごとに情報の量が違うんですよ。篠原について、最も詳しく書かれているのはドイツ語版です。
小倉――大方、スイス人が書いているんでしょうね。
江本――今日の話をまとめると、篠原一男は自分について建築史に書かれるという強い自意識をもっている人だったということです。
小倉――その手助けを、我々も知らず知らずのうちにすることになっているということですね。ありがとうございました。
開催日:2025年5月25日
於:TOTOギャラリー・間 4Fにて
編集:磯達雄(Office Bunga)
小倉――今回のギャラリー・トークでは、篠原一男の図面やスケッチを見ながら、あれやこれやを話していきたいと思います。取り上げる作品は、主に「から傘の家」(1961年)と「白の家」(1966年)です。まずは「から傘の家」から。 正方形平面の平屋で、床面積は55㎡くらい。すごく小さいですね。これは当時の住宅金融公庫で融資を受けられる上限がこの面積だったからでした。
能作――扇垂木と呼ばれる放射状の垂木が架かっています。平面図を見ると、丸い柱が中心からずれたところにある。この合わせ梁は、屋根が広がっていく力に対抗するために、直交して入っている。その分割が、ちょうど4:3の比になっています。 もし中心に柱があったら、この傘状の天井を見上げるのは難しい。
常山――この建物を見たときに、広間を分割しているすだれが効いているなと思いました。 柔らかい素材なので建築なのか、それともカーテンのような調度品の位置付けなのか、気になったのですが、図面を見ると篠原は最初からこれを付けることを考えていて、挟み梁を活かして掛ける方法まで指示しています。それが印象的でした。
能作――床に段差がありますよね。畳の部屋は150㎜上がっている。これは民家の土間を現代の住宅にどうやって組み込むかという試みなのでしょう。篠原の「土間の家」(1963年)では、本当に三和土の土間でしたが、ここでは板張りで、段差を設けることで、土間の雰囲気をつくろうとしています。
小倉――ディテールで注目されるのは、垂木が集まってくる頂点の納まりです
能作――扇垂木の例では京都に高台寺傘亭という建物があって、それと似た形になっています。 ただし傘亭は正方形の板で蕪束を隠していますが、ここでは正方形のフレームが鉄板で構成されて、それに一本ごとの垂木がボルトで接合されています。 だから構造とデザインの両方を兼ね備えたものだとわかります。
小倉――浄土寺浄土堂という正方形平面の建物が兵庫県にあります。あれは隅部だけが扇垂木になっているものですが、篠原はこれを参照したのではないかと言われています。そういうお堂のような形式の建築を住宅に取り入れるという試みだったのです。
能作――「から傘の家」の天井、「白の家」の外観が浄土寺浄土堂と通じるところがあるように見えます。
小倉――では続いて「白の家」の図面を見ていきましょう。こちらも正方形の平面ですけど、「から傘の家」が7.4m四方なのに対して、こちらは10m四方です。平面はまた広間と寝室に分割されています。架構はむしろこちらの方が傘に近いですね。 真ん中に柱があって、方杖が出ている。方杖を使うのは、「花山北の家」(1965年)に続いてです。
能作――方杖を構造として使っているけれど、それは隠されています。天井を張って、屋根の小屋組を見せない。そこが特徴です。
常山――小径材を使って、方杖や登り梁をなるべく細く、鼻隠しも薄くしようという意図が伝わってきます。
小倉――この時期の篠原は、新しい架構を考えることが、空間を新しくする一番手っ取り早い方法だととらえていました。構造体の部材を部分的に見せると空間に力が生まれる、みたいなこともインタビューで言っていて、「白の家」がまさにそうです。
能作――立面は「から傘の家」と「白の家」で構成のルールが共通しています。まずは2:1や4:3といった比で平面を分割する。そこに真壁造りの外壁に柱が配置され、分割が立面に現れます。次に開口部をどう開けるかという次のステップがあり、開口部は柱間にフルワイドで設けていく。「白の家」の場合は、2階寝室の窓だけイレギュラーですけど、それ以外はこのルールに沿っています。「から傘の家」では、寝室東側の窓でわざわざ戸袋を入れて、柱から柱までが開口部のように見せています。それからキッチンの開口部も斜めに縁甲板を張って、少し外壁から飛び出させています。
小倉――篠原は「非分割」ということを言い出します。それがちょうどこの頃ですね。「白の家」でも広間の中に入れ子状に水回りを設けていますけど、柱による分割だけだとプランニングの制約がきびしいこともあり、分割のルールから逃れながら小さな部屋をつくっていくための方策だったとも考えられます。
能作――天井の高さも相当に意識して設定したと思います。天井高は3.7m。平屋では難しいけれど、2階分はなく、1.5階分ぐらい。微妙な寸法ですね。3.7mという寸法は、開口部の高さは1.8m程度なのでその2倍となっています。さらに三六版のプラスターボードを2枚貼って、巾木を入れたらちょうどそのくらいです。
小倉――なるほど、それはありそうですね。
能作――坂本一成先生の「代田の町家」(1976年)の主室は同じ寸法の天井高です。
常山――平面、断面詳細図で寸法や納まりを検討する設計方法には、東京工業大学の建築設計教育の伝統がうかがえます。東工大の教育が身体化された能作とは、例えば高さ関係で揉めることがあります。軒高が低すぎるからと私が直すと、また低く戻される。篠原の断図面を見ると高さと低さが均衡しており、そこへの集中力を感じます。それを通して能作のこだわっていたことが腑に落ちることがありました。
能作――床の高さは、「白の家」で一番わからないと思った点です。本来は、広間が土間という位置づけで、一段下がっていた。でもここでは、広間が150㎜上がっていて、反転している。これはなぜなのか。2階を収めるために1階の寝室の床を少し下げたのか。
小倉――土間的にならないように、意識的に構成をひっくり返したのかなと思っています。「土間の家」から「白の家」まで、作品の発表が少し空く。 前後どちらの作品群も〈第1の様式〉に位置づいているのですが、その間に作風が少し変わるんですよね。抽象的な箱の造形へと傾斜していく分岐点が、この作品だったと言えます。
能作――デビュー作の「久我山の家」(1954年)はピロティです。それに対する反省を篠原が書いていた覚えがあります。高床は貴族的な住宅の系譜であって、一方、民家の原点は土間である、私はそちらに向かいたい。それが「白の家」ではもう一度、貴族的な住宅へ戻っている。土間に対する関心が次第に薄れて、ホワイトキューブの方向へ行ったと見えますね。
小倉――そうですね。壁の仕上げもしっくいではなくて、プラスターボードの上にビニルペイントを使う。必ずしも自然素材にこだわるわけではなく、プレーンな工業製品みたいなものを使うのは篠原の一般的な好みではあります。
能作――「久我山の家」からの展開についてさらに言うと、平面が「久我山の家」ではきれいに4等分されているのに対し、「から傘の家」と「白の家」では4:3とか2:1とかの比で分割されている。篠原は、西洋の建築は空間をどんどん追加していくのに対して、日本の伝統的な建築は全体が決まって、そこから分割していくのだという。その原理を自分の〈第1の様式〉にも適用する。 でも通常の日本の木造建築は、910㎜というモジュールがあって、それを倍にしていくことで設計されています。私も大概はそうです。だけど篠原の場合は、55㎡という広さや、10mという1辺の長さをまず設定して、4:3や2:1で分割するという方法を採る。要するにモジュールを無視して、幾何学的な比例の関係を優先させるというやり方が強く出ているのです。これはかなり異常ではないですか。
小倉――重要な視点ですね。ご指摘の通り、篠原は「連結」が西洋的な伝統で、「分割」が日本の伝統であると、対比的にとらえるんですけど、もうひとつの対抗軸があって、それがモジュールプランニング的な伝統理解なんですよ。具体的に言っているのは、日本の住宅は畳の寸法が決まっていて、それをつなげて田の字プランのような民家や桂離宮のような貴族住宅をつくっているというけど、それはモダニズム受容を内面化してつくられた論理にすぎない、日本の伝統住居の原型はあくまでも分割なのである、と。
能作――日本建築の910モジュールというのは、近世に出てきたもので、篠原はもう少し前の、古代や中世をリファレンスとして持っていたのかもしれませんね。『住宅建築』の中で、竪穴式住居に始まる民家の歴史には二度の飛躍があると書かれていて、1回目は垂直の壁ができたこと。それによって屋根と壁が分かれ、土間と床の分割も生じた。2回目は田の字型平面。これで床がさらに分割される。この2回目の飛躍について篠原は、民家の中でも貧しい家と金持ちの家があって、金持ちの家が武家住宅を真似したことによって、こういう変化が生まれたのだ、と。だから、田の字が民家の象徴みたいに扱われることに対して、かなり批判的です。
小倉――伝統というよりも、根源とか 始原みたいなところに興味がありますよね。
能作――1/5の枠周り詳細図を見ましょう。詳細図は普通だと開口部だけ取り出して描きますが、篠原は全体をつなげて描きますね。
小倉――これは篠原の発明ではなく、清家研のやり方です。 枠周りのつくり方と空間の構成を同時に示せるので、すごく便利な描き方です。篠原は晩年まで、これを描いています。
能作――柱は、105角の材を、隅では3本、中央では2本、組み合わせた組柱になっていますね。どうしてこんなことをしたのだろう。木造としてはスパンが大きいので、隅木の寸法も大きくなる。それを受けようとすると、柱も150角くらいは欲しいところだが、壁の厚み自体を150㎜にすると無駄なので、一般的なサイズの105角を組み合わせて構成しようということでしょうか。
小倉――小断面材を組み合わせて使うみたいなやり方は、清家清から受け継いだ構法のアイディアといえますね。推測を交えれば、立面のデザイン上、柱を太く見せたかった。いわばジャイアント・オーダーのような、そういった面もあったのかなと思います。
能作――組柱のところはいろいろ悩んだのでしょうね。壁の端から端まで開口部を設けたいと思うけど、組柱がL字になっていると、そこは難しい。 白い壁が少し出てくるのは避けたい。 それで小さい見切りを付けたのだろう。そんな工夫をしたように見えます。
常山――外からの見え方を優先していますよね。水回りのボックスが出ているところも、柱を見せてからボックスを出すようにして立面図が弱くならないようにしています。
能作――真壁に見せるというところに、まず優先順位がある。
小倉――そこは分割の構成を示すところなので、すごく重要ですよね。
能作――内側も外側も真壁にする場合はすんなりいけますけど、「白の家」の難しいところは、中は大壁で外は真壁というところ。
常山――そういう矛盾が面白い。
小倉――外側も、真壁として見せていますけど、壁の方が前に出ていますからね。 篠原はこのディテールが好きで、「谷川さんの住宅」でもやっています。
常山――確かにそう。柱がへこんでいました。
小倉――作品発表用に描いた図面でも、この見切りのでこぼこは省略されずに残るんですよね。 図面上でもこれは見せたい。 篠原にとって重要な箇所だったのでしょう。 実作でも発表図面でも表現がどんどん抽象化されていく人なのですが、ここはこだわりが見えますね。
能作――篠原の建築は、ひとつの論理でできてないところに特徴がある。「白の家」では中は大壁、外は真壁にした。「から傘の家」では屋根は扇垂木が中心に集まるようにして、一方で平面の分割は4:3にした。複数の論理を並走させて、建築をつくっている。
常山――抽象性と物質感を並走させるというのもあります。
能作――そして、そのずれや一致によって関数的な法則を生み出していく。そこがとても興味深いですね。
小倉――そうですね。 二項対立を重ね合わせて、その間を考えることで新しいものを生み出そうという人でした。
小倉――スケッチについての話もしましょう。 見るとわかってくるのは、過去の自分に問いかけながら、次の作品の展開を考えているということです。「蓼科山地の初等幾何」(2006年、計画案)では、「ハウス イン ヨコハマ」(1985年)か「白の家」か、どちらの続きなのか、すごく迷って、結局は「白の家」の続きにしたということが、膨大なスケッチからも伝わります。
能作――「東京工業大学百年記念館」(1987年)など、〈第4の様式〉のスケッチは見ますが、それ以前の住宅の作品もスケッチが残っているんですか。
小倉――「谷川さんの住宅」(1974年)、「上原通りの住宅」(1976年)あたりは残っています。でも〈第1の様式〉の頃のものは、見たことないですね。捨てているんだと思います。
能作――〈第4の様式〉の頃だと、やはり見せることを考えたスケッチという印象があります。色を付けたり、線を何回も重ねて描いたり。自分と対話するツールだったとともに、人に見られるものとして、描いている。
小倉――そうだと思います。残すことをとにかく意識しています。自分の資料を生前に奥山信一先生へ預けているので、そのときに取捨選択をしたとも言われています。 篠原は自分のアーカイブもまたデザインしてしまった。そういうことも考えられます。
能作――使っているのは鉛筆ですか。
小倉――黒いのは鉛筆ですね。クレヨンのような色鉛筆もよく使います。
常山――スケッチはひとりでいるときに描いてるんですか。
小倉――ひとりで書いてるそうです。篠原研究室の出身者も、スケッチを描いている姿を見たことがない、あるいはそもそもスケッチをあまり見たことがない、そうおっしゃっていますね。実物を見てびっくりしたんですけど、すごく小さいんですよ。小さいのに、ものすごく勢いのある線を描く。
常山――そうなのですね。紙をさまざまな方向から使ったりと、皆で議論しながら繰り返し線を重ねたスケッチのように見えました。清書された端正な図面と対照的で、そこに篠原の設計のスピード感を見た気がします。
小倉――今日は篠原一男の図面とスケッチをめぐって、面白い話が展開できたと思います。ありがとうございました。
開催日:2025年6月8日
於:TOTOギャラリー・間 4Fにて
編集:磯達雄(Office Bunga)
